自然歩道は昨日通った一字観公園のある大内峠から北東方向のスイス村の方へ伸びているが、山の中で宿の手配が難しそうな場所なので、鉄道沿いのルートを設定したため、きょうは間人(たいざ)まで全ルートが車の多い道になってしまった。 峰山までは国道と平行した旧道らしい道を選んだが、歩道がない狭い道を切れ間なく車が通る。地元の通勤の車だろうか? かなりの速度でぶっ飛ばしている。 |
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昨夜の宿 国民年金健康センター 丹後おおみや |
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京都の文化を色濃く受けている地らしく、道路のいたる所にきれいに着飾ったお地蔵さんが祀ってある。 福井県若狭地方にも同じような風習があり、毎年地区の子供たちがお盆の頃にお地蔵さんの化粧をしたり衣装を替えたりする行事が行われている。 |
今日の宿を検索したときにリストに上がってきた「丹後あじわいの郷」はここを左折して5kmらしい。(右画像) 海辺の「はしうど荘」が取れたので、ここは直進。 |
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はしうど荘の前には道路を挟んで丹後町役場の庁舎が建っている。(下左画像) 庁舎の横には巨大な岩の塊がでーんと座っている。 ちょっと珍しい光景だ。 |
| 庁舎の前には平成16年4月1日、峰山町・大宮町・網野町・丹後町・弥栄町・久美浜町の6町が合併して京丹後市になったことを書いた石碑があった。 |
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丹後町役場 |
今日の宿「はしうど荘」 |
きょうの宿「はしうど荘」には、14時04分に到着してしまった。まだ早いので、フロントに荷物を預け、自然歩道「丹後松島と後ヶ浜を訪ねるみち」の基点まで行ってみることにする。 GPSの地図を見ると竹野川の河口付近には国道178号線の橋しかないらしいので、その方向に歩いて行く。 道の駅「てんきてんき村」というのが建っている。
竹野川の橋に歩道がない。 整備が行き届いている京都府の自然歩道にしてはちょっと変だなと思ったが、橋の前後には歩道があるので、短い橋だけのことだからしょうがなかったのかも・・・? と思ったが、ルート案内の道標も近くに見つからない。ますます変だと思って、海岸の立岩の方に目をやると、橋があるではないか。 あれを通るのか・・・・。と、少し戻って、その方向へ歩いていってみると、木製の歩道橋だった。 |
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| てんきてんき橋 |
立岩 |
大成古墳群 |
丹後松島は車で7~8分と聞いてきたので、徒歩だと1時間ぐらいだろうか? 筆石の手前で農作業をしているおじさんがいたので、聞いてみると 「今は新しい道ができ、トンネルを出たところに展望台ができているが、昔は、あの山の峠から反対側に下って視界が開けたところで見たのが丹後松島だった」 「歩いて行くと、40分ぐらいかかるかな・・・」と、いうことだった。
自然歩道の案内道標は、おじさんが言っていた旧道の方へ向いていた。 筆石、乗原バス停を過ぎ、峠付近を過ぎても海が見える場所はなかなか現れなかった。 かなり下って漸く丹後松島が望める場所に到着した。 展望しやすいように手前の樹木を最近伐採した跡が残っていた。
きょうは黄砂の飛来が激しく、入り組んだ海岸線の丹後松島の島々が、どんよりと霞んで見えた。 更に下って、此代バス停まで歩いて「丹後松島と後ヶ浜を訪ねるみち」の基点に到着。 |
乗原(のんはら)への分岐点付近で眼下に屏風岩が見える。 高さが13mあるという、文字通り屏風のように直立する一枚岩だ。 |
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旧道からの屏風岩 |
黄砂に煙る丹後松島 |
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近畿自然歩道「丹後松島と後ヶ浜を訪ねるみち」の基点此代集落にもたくさんのお地蔵さんが祀ってあった。 |
| 満開のエゴノキ |
これ全部お地蔵さん |
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帰りは新しい道を歩いて、新展望台から松島をカメラに収めたが、高い位置の旧道からの眺めの方が良かった。 屏風岩では三脚に大型のフィルムカメラを据えたアマチュアカメラマンが数人いた。 ファインダーを覗かせてもらって、同じような構図で数枚撮ってみた。 「露出は2/3絞りアンダーにせんとあかんよ!」と、アドバイスしてくれたが、結果は期待したほどいい写真にはなっていなかった。 もう少し日が沈むまで待った方が良かったのだろうと思ったが、そこが「歩き」の辛いところで、陽が沈むまでは待てない・・・。 きょうは日曜日とあって、何台もカメラをぶら下げた日曜カメラマンが逆光の水田の畦道などでも盛んにシャッターを切っていた。 |
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昔、若い頃福知山に勤務したことがあった。 上司から「間人」と書いて「たいざ」と読むことを教わったが、どうしてそう読むのか、とうとう分からずじまいだったが、今日40数年ぶりにその謎が解けた。 |
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| 間人皇后像 |
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海岸沿いの遊歩道と「はしうど荘」 |
昔、聖徳太子の母間人(はしうど)皇后が、争いを避けて奈良斑鳩(いかるが)から、この地に来られたそうだ。 村人の手厚いもてなしに感謝され、ご自分の名を地名に「間人村(はしうどむら)」と与えられたが、村人は皇后の名をそのまま地名に使うのは余りにもおそれ多いと、この村を御退座されたことに因んで「たいざ」と読み替えたと伝えられているそうだ。 |